Trip,Investment,Lifework...
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
死海・・・
イスラエルとヨルダンの国境沿いにあり、湖面の海抜はマイナス418メートルと、地表で最も低い場所にあります。
塩分が海水の7倍程度と非常に濃く、生物がほとんど生息できないことから「死海」と呼ばれています。
思った以上に死海はリゾート化され、高級ホテルが数多くありました。
観光客は死海へどこからでも入場することはできません。
専用の入場口があり、一つの娯楽施設として存在しており、ちなみに入場料は3000円と破格の価格でした・
恐らく現地の庶民の方であれば、誰一人として入れない金額です。
入ってみるとまさにリゾート。
そして死海ではお決まりのポーズ。
情報ノートでは30分もすると穴という穴が痛くなり、入っていられなくなると書いてありましたが、3、4時間ずっと入ってました。
水の中を浮くこと自体が初体験の自分にとって夢のような信じられない不思議な場所でした。
さすがに長時間入っていると、傷口や穴という穴が痛くなり始め 口に湖水を入れようならば、しょっぱさを通り越し、ものすごい苦さでした。ちなみに死海は湖です。
対岸にはイスラエルが見え、ヨルダン・イスラエルは反欧米感情がある中、欧米からの旅行者が沢山いました。
死海の砂利は塩で覆われており、湖の下は白い塩板で固くなっています。
夕焼けが印象的で、ここ 死海は死ぬ前にもう一度行きたい場所です。
あまりにも楽しすぎて、バスの終電を逃すことに・
しかし、タクシーの運ちゃんを捕まえ 無事アンマンまでタクシーで帰ることができましたが、
対岸のイスラエルでは夜 空爆の『ボン ボン』と光ると聞き、さすがに怖かった・
近年、地球温暖化の影響もあり、死海は干上がり将来的に消滅するのでは?と囁かれています。
べネチアに続き、地球温暖化の波がここにも影響している事実を知り、旅をしている中で温暖化の危機を改めて感じた。
明日は ヨルダンの首都アンマンの市内観光に行きたいと思う。
ダマスカスは紀元前8000年から10000年もの昔から人が定住しており、「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られています。
ダマスカスの中心であるマルジェ広場の近く。なぜかジブリの世界でありそうな廃墟がひっそりと広場の中心に建っていました。
そしてこれがダマスカスの宿。
(写真はホテルの中庭)
ホテルの外では自動車の排気ガスのスモッグが舞い、喧騒としている中にあり、このホテルでは癒されました。
部屋は普通の3人のドミトリールームで、シャワーも24時間お湯が出たので安心でした。
ちなみに、事件のあったパルミラ遺跡の宿は水シャワー・
一泊1000円とこの国の物価にしては高かったが、日本人の情報ノートもあり役に立った。
宿の近くには、今まで食べたことの無いくらい美味しいレモンシャーベット屋があった。
これは今でも食べたいくらい美味しいアイスでしかも値段は20円~と安く、毎日食べていた。
そしてダマスカスで一番大きいスーク・ハミディーエへ。
スークには日用雑貨から、衣料と様々なものが売られていたが、ここにも行列ができるアイス屋があったり、画像のように野菜を切って飾り売りしていたりと食べ物の印象の強いスークであった。
そのスークを通り抜けると スパイスが置かれているお店で、日本人かと声をかけられ、勝手にポーズされたので反射的に撮ってしまった・
すごくいい笑顔。
グルメなダマスカス。
宿の情報ノートには沢山のおすすめレストラン情報が載っていた。
中東の食べ物が飽きてきており、食中毒をおこしてからゲッソリしていた自分は、栄養を蓄えようとイタリア料理やに行くことにした。
その名は“ロッシーニ”
パスタ、ポテト、イカフライ、そして『ジャンボシュリンプ』をオーダーした。
“ジャンボシュリンプ”ってくらいだから日本円で2千円もしたが、メインとしてオーダーした。
ジャンボシュリンプ・
人生で期待はずれ というものには何度も会ってきたが、これが人生で一番であった。
小さくも大きくも無く、普通の大きさのエビ。
しかも ぱっさぱさで味がなかった。
凄く残念だったが、それ以外は美味しく安かったので結果的には良かった。
最終日にはチキンの丸焼きも食べた。
ここも安く凄く美味しかった。
そして ダマスカスから国境を越え、ヨルダンのアンマン・死海へと向かいます
シルクロードの西のはずれ、中東シリアの砂漠に位置するパルミラ遺跡。
紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて築かれたローマ帝国支配時の、東西交易の要衝として築かれたオアシス都市です。
ローマ様式の建造物が多数残っており、代表的な建物としては順に、パルミラの列柱道路、四面門、ローマ式の円形劇場があります。
四面門には病み上がりの自分が小さく写っています。
まだ本調子ではなく、ギラギラと照る太陽がまぶしく、きつかった・
ローマと見まがうばかりの贅沢な施設の跡が色々と残されていました。
砂漠の真っただ中に、こんなオアシス都市が何千年も前にあったとは信じがたかった。
そんな自分が生まれてもいない時代のことをよく知ることができるのも、遺跡や、石碑・書物と、当時の人々の記した記録が、数千年の時の流れに耐え抜いているから。
今では保存する方法として、パソコンのハードディスクやCDとデータという媒体で残しています。
しかし、いつかデータは消え、後世に残すことは非常に困難だといわれています。
歴史上 何千年後の後世のために、記録を残すためには『紙や石』といった原始的名方法のみがなせる業なのです。
コーヒー親父に続き、シリア・パルミラで再度事件が起こった。
アレッポ→パルミラに無事到着。
パルミラには遺跡のみの目的だったために一泊二日の予定でした。
バスを降りると、辺りには何も無い・
なぜか 中東のバス停は市街地からやけに遠く、必ずタクシーかセルビスに乗らなければならない。
さっそくタクシーの運転手が日本人と分かったのか、声をかけてきた。
その名は『鈴木たかし』。かなり怪しい。
誰かに書いてもらったのか、動くのか分からないようなタクシーのフロントには『鈴木たかし』とダンボールにでっかく書いたものが飾られていた。
鈴木は100パーセントのシリア人。
なぜこの名なのかは分からないが、安心させるためか サッカーの中田選手が旅をしていた時にホテルに残したという、紙を見せてくれてた。
そして市街地までの料金を聞いてみると、50シリアポンド(100円)。
高い!とかなり粘った結果、5シリアポンド(10円)までになった・・
中東は現地人価格と観光地価格が必ず存在し、特に日本人にはあり得ない金額を提示してくるので注意。
現地価格にするのは並々ならぬ交渉力が必要だし、せっかく旅行にきているので それに近い金額にするだけでも十分だと思います。
鈴木に市街地まで送ってもらい、歩き方に載っていた宿に着き、屋根部屋しかないということだったが、一泊の予定であったし仕方なくそこに決めた。
そしてこれが屋根部屋。一泊500円程度。
クーラーが付いていなかったので夏は灼熱だと想像すると恐ろしかった。
宿の屋上からの景色。
砂漠に囲まれた、砂 一色の殺風景な田舎町でしたが、
女の子達はカラフルにオシャレしてました。
そして夕飯を食べた後、ちょっと寒気がしてきたので宿で休むことに。
その後、熱がでてきて 体温計で測ってみると39℃・
風邪だと思い、薬を飲み、宿の延長をお願いした。
その夜から 嘔吐・腹痛にうなされ、風邪+食あたり的な感覚だった。
今まで体験したことがないような 胃を握り潰されるような痛みだった。
2日間安静にし、薬を飲んでいたが大から小が一時間に一度毎晩うなされた。
さすがにこれは限界だと思い 医者を呼んだ。
医者が30分後に来ると聞いていたが、なかなか一向に来ない・
3時間後やっと来た。
英語もまともに伝わらない中、今まで食べたものや今までの経緯を詳しく説明した。
原因は食中毒だったらしい。その処方として、お尻に2度注射をしたがこれが死ぬほど痛かった。
そして丸3日間 何もできず、遺跡にも外にも一歩も出ることができなかった。
鏡を見ると 顔が今まで以上にこけ、体重を量ってみると4kg痩せ、無駄な肉が全くなり生気がなくなっていた・
4日目にして注射と薬が強かったのか、だいぶ直り次の日には歩けるまで回復した。
看病をしてくれた方々ありがとうございました。
明日はパルミラ遺跡に行きたいと思う。
しかし、実際は嫌いなことをやってお金がない人生を選ぶ人が多く、そのわけは、人間が習慣の動物だから一度嫌いなことをやって生活するパターンが身につくとそのほうが慣れ親しんだ感じがするからだといいます。皆さんはどうですか?
これはヨルダンのワディラム砂漠。
赤い砂漠として有名で、夜の星空がすごく綺麗だった。
アレッポをはじめ、シリアは非常に物価が安い。
アレッポではサンドイッチ(画像の肉入りドーナッツ入り)が一個50円で結構うまい。
あと、砂地の多い土地なのに意外にあったのがこのようなフレッシュジュース屋が充実していたこと。
1杯50円とやはり安かった。
おそらくこのどちらかに悪いウイルスが入っていて、次のパルミラ遺跡で事件が起こった・
クラクションが鳴り響く、アレッポ旧市街の西側に時計塔がありますが、そこからやや北の地域がキリスト教徒地区になっています。
ここには、ギリシャ正教とカソリックの教会が並んで立っています。
アレッポ最終日には偶然会った世界一周中の日本人の方達とディナーをしました。
右は大阪大学出身の新婚旅行カップル。
そして左の二人は立教大学の観光学部出身のカップルでした。
久しぶりに多くの日本人に囲まれながらの夕飯。
夕飯は普段行くことのない、格式が高いレストランに見えましたが、物価が安いことで一人1000円と驚くほど安かったです。
なぜこの旅に出たのか、旅のトラブル、今までで一番良かった場所は? という話をしましたが、話の中に知的さが感じられ、充実した夜でした。
左のカップルは、『観光学部からみた世界』という題で盛岡のラジオ番組で毎週レギュラー放送していると言っていたので、是非興味のある方は調べてみてください。
そして次の日、新たな気持ちでアレッポからパルミナ遺跡へと向かいました・
朝一 サンドイッチを食べにホテルを出ると、
なにやら外が騒がしい。
火事だ!向こうからサイレンが聞こえ、どこから沸いて出てきたのかヤジウマがたくさん来ていた。
平日の昼間なのに、仕事を中止し、火事をみんなボーっとみていた。
その消火活動を見終え、アレッポ城へ。
象徴的な建物であるアレッポ城は、紀元前10世紀に最初に建築され、12世紀から14世紀にはモンゴル帝国の侵入や十字軍の攻撃にも耐えました。
世界最大の市場の1つともいわれるスークもアレッポ城の隣にあります。
アレッポ城では中のローマ円形劇場で何かイベントが行われるようで、一生懸命そのセットを運んでいる姿がみえました。
一見、蟻みたいに見えるが、自分達よりも大きなものを運んでいるその姿はたくましい。
城の周りには深い堀が掘られており、正面にはいかにも頑丈そうな城門があります。
その正面口を入ると、またもや東洋人が珍しいようで 視線の嵐。
みんなに 『ピクチャー ピクチャー』といわれながらの写真。
デジカメが珍しかったようだが、写真に撮り慣れているかのようなポージングだった。
アレッポ城から見る景色はこんな感じ。
ヨーロッパとはやはりちょっと違った景色でした。
モスクが見え、パラボナアンテナが屋根という屋根に付いていたのが印象的でした。
アレッポ城を見ている間もずっと地元民が付いてきていた。
『ヘイ ヘイ!』というので激写したのがこの一枚。
無事シリアを入国でき、アレッポへ。
アレッポ・・・
シリア北部に位置し、首都ダマスカスに次ぐシリア第2の都市で、トルコとの国境側に位置しています。
そして何よりも有名なのが日本でよく見かけるアレッポ石鹸です。
オリーブとローレルオイルが原材料で伝統的製法で作られている天然無添加せっけんです。
車内で寝ていると、バスの運転手が『アレッポ!,アレッポ!』というので、バックパックを降ろし路上で一息ついた。
路上でもまた、日本人が珍しいのか 車のクラクションを鳴らしてきたり、『ウェルカム ウェルカム!』と笑顔で手を振ってきた。
日本にいると中東は危ないというイメージを持っていますが、実際は非常に安全です。
ヨーロッパで多発してる盗難は、ここ中東では宗教上 重罪として扱われるためあまり無く、治安は日本よりもいいと思うくらいです。
実際に話してみると中東の人は温厚なイメージさえあります。
バスを降りてシリア初のアラビア看板。
シリアの大半は半乾燥地帯で砂漠気候となっているため、草木が無くなり山々もはげ、いよいよラクダの似合う風景になってきた。
大きな道にはアレッポの看板があったので、バックパックを引きずりながら大きな道をずっと歩いていった。
いくら歩いてもいっこうにアレッポが見えてこない。
日差しが強い中、5キロは歩いた。
そして看板があったので見てみるとなんと 『ALEPPO 40km』の文字。
40キロ!?どうりで着かない訳だ・
そして歩くのを断念し、セルビスという地元民が使う乗り合いタクシーを拾い、アレッポに向かった。
25キロ近い荷物を持って 暑い中、5キロ歩いたことで体はクタクタだった。
アレッポに向かう中、なぜバスがアレッポから40km地点で自分を降ろしたのか疑問は残っていたが、
その後またここでもトラブルが。
無事アレッポに着くと、セルビスの運転手が2ドルでは足りないという。かなり運転手はキレていた。
今度は料金のトラブルだ。
しかし、はじめの交渉で2ドルでいいといっていたのでそれ以上持っていないと一点張りした。
この国のトラブルに理屈はない気がした。
どうにか逃げ、やっとのことで宿に到着。
疲れて空腹だったため、宿で夕飯を食べたが画像の通り、肉がドックフードみたいな味で正直美味しいとはいえなかった。この国から痩せ始めていた。
これが今回の宿。セクハラ宿として有名らしかったが、宿の雰囲気は良かった。
夕飯の時、珍しく日本人がいたので話した。
彼女は早稲田の博士で、夏休みを利用して中東のみ2ヶ月間旅をしているという。
しかも服装、容姿と見た目は綺麗な人で 中東一人旅とは無縁のように見え、すごいギャップを感じた。
彼女はすでに中東を周ってきた後だったので、この日は色々と情報を聞くことができたことだけが唯一良かった。