Trip,Investment,Lifework...
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出合ったきっかけは語学交換(exchange language)だそうです。
ティノ。本名Tino Mager
職業はプロデューサー兼教師。
ティノのホームページ。
http://mymatrix.bplaced.net/a/index.php?option=com_content&view=article&id=46&Itemid=53
暇さえあれば こずえさんに擦り付いて離れません。
いつかティノは日本に行きたいそうですが、
まずどこに行きたいかというとカプセルホテルだそうです・
外国人は何の影響かはわかりませんが、カプセルホテルに興味があります。
ティノは自分と一緒で甘党。
本当は男前なのに、写真になるとクッキングパパのような笑顔を作ります。
すごい多趣味な人で、3Dwebデザイン・フライヤー作り・写真・ラップと多彩です。
ティノの印象に残っている事は、湖に一緒に行った時に気づいたら遠くの離島まで泳いで行ってたこと。半端無い体力の持ち主です。
こずえさん。
ベルリンの大学に通うアート感溢れる人。
ベルリンには現代芸術に興味を持ち、
ワーキングホリデーで来てから 2年在住。
こずえさんにも色々とお世話になった。
外へのディナーに誘ってもらったり、
夕飯をご馳走になったりと。
ベルリンの分からない事や現地の詳しい情報など、終始サポートしてくれ助かった。
ティノは高校生まで東ドイツの社会主義として一貫教育され、その後ドイツ統一となった。
自分は社会主義の環境で育ってきた人と対話し、一緒に生活することは初めての体験であった。
やはり少しスローペースというか変な建前もなく、自由に生きている印象をうけた。
彼のモットーは 仕事:8時間 趣味の時間:8時間 睡眠:8時間 という生活サイクルで生きること。
ティノ達の社会主義ついて こずえさんと話す機会があった。
ティノをはじめ、元共産主義の人たちは基本的に損得感情が無いらしい。
こずえさんのアトリエのオーナーが東ドイツ人だった時は賃料がタダだったのに対して、
今の西ドイツ人はお金を請求してくるようになったと聞いた。
自分なら賃料はもちろん取る。しかし、余裕があるとタダで向こうは貸してくれる。
そこが簡単に言ってしまえば文化の違いだと思う。
資本主義の中で育ってきた日本人は、とにかく勝つか負けるかを考え・他人と常に比較し・行動する。それに対し、全てが平等にできている共産主義の中で育つと競争する精神がないので、自分のやりたいように考え・行動する。
しかし、町内全体が 家、車、テレビ、机、スプーンやフォークに至るまで、全てが同じ物を使っている生活っていうのはなかなか想像し難い。
今でも元東ドイツの人(元社会主義)は言う。ドイツが統一し資本主義になったせいで無職になった。資本主義はリストラを招く元だ。日本もそうだろ?と嘆く人も。
こられの答えは簡単には解決できない問題だと思う。
しかし、この10日間 色々と考えさせられた10日間であった事は間違いない。
※おまけ ティノとティノのお兄さんの共作です。左がティノで右が兄貴。check it ouT!!!
No more war!!
そしてこれがティノお兄さん 笑
宿主 ティノに誘われ蚤の市に行ってきました。
ユーズドやアンティーク(ほとんど3~5ユーロ)ばかりで、期待通りのお店ばっかりでした。
夕方に行ったのですが、正直もっと見たかったです。
蚤の市の様子
最初の画像は実際に自分が買った額と絵(これで3ユーロ 500円)
後のは欲しかった花瓶と興味深かった動物の剥製
その後、ティノの将来のフィアンセ!?のこずえさんに教えてもらったアトリエへ。
ここはタヒェレス (Tacheles) http://super.tacheles.de/cms/ といい、第2次世界大戦の戦渦を受けた建物がそのまま廃墟として残存してたところを、アーティストたちが続々とアトリエとして使用し、その芸術の制作の場としています。
他に映画館や劇場、バーも併設してありました。
建物は歴史的建造物として保護されており、大手投資家が保有していて、アーティストに一月1ユーロで貸しているそうです。
街にはみやげ物屋のテディベアが沢山ありました が正直高くて買う気になりませんでした。
ベルリンの壁。
ベルリンの壁は、1961年から1989年の間に存在した東ベルリンと西ベルリンを隔てる壁でした。
情勢の緊迫化を恐れた東ドイツ国民は、西への脱出を試み、一日に2000人~2500人もの亡命者を出しました。その後西ドイツを囲むように東ドイツがベルリンの壁を建設しました。
コルバチョフの推進するペレストロイカの東欧改革によって、そのベルリンに一大転機が迎られ、ベルリンの街では民主化運動が激しくなり、最終的に100万人もの人がデモに参加しました。
その後、『東ドイツ市民の旅行の自由が認められた』という声明が発表されると、国境に市民達が殺到し、西ベルリン・東ベルリン双方が、熱狂の渦の中で互いに祝福しあい、実質的に意味を持たなくなったベルリンの壁を市民の手で崩壊したのでした。
今でも12ヶ所でベルリンの壁を見ることができます。
これはチャックポイントチャーリー。
第二次世界大戦後において
ドイツ・ベルリンが東西に分断されていた時代に、置かれていた国境検問所。
下の2枚はイーストサイドギャラリー。
素人、観光者による落書きが目立ちましたが、
中には著名なペインターによる作品がいくつかありました。
最後の写真では壁を越えようと亡命を試みたが失敗し、ベルリンの壁で射殺された人たちのお墓です。
こんなコンクリートでできた壁一枚が 東ベルリンの人達にとっては絶対的な外界への遮断でした。
壁があった社会主義の時代、東ベルリンの人たちは強制的に働かされ、家族にでも政治体制の不満を言えば密告により死刑にされる危険性があり、誰も政府に逆らえない中 暗闇の時代をひっそりと生きていました。
この時代に生きた人たちは、
一人ひとりの心にも『壁』が存在していた時代なのでした。
今日はベルリンの有名な建築物を見に出かけた。
まずはブランデンブルグ門。
プロイセン王国の凱旋門として建てられ、第二次世界大戦後に再度修復されている。
次に向かったのが、このカイザーヴィルヘム記念教会。
ここは駅から降りた途端に視界に入ってくるのだが、何か異様な雰囲気。
それはなぜだか瞬時にわかった。何とドームの頭が無く、教会が半壊しているのだ。
これには深い訳があり、まずこの教会は歴史がそう古くなく、1891年に建設されている。
しかし、1943年、第二次世界大戦末期の砲火で一部を破壊された。
そこで、戦争の悲惨さを今に伝える記念碑として、修復されずにそのままの状態で永久保存されているという。
教会としての機能が失った今、内部には展示室があり、戦争の様子やこの教会が被った被害の状況等の写真が展示されていた。
次に博物館島と呼ばれるところに行き、ベルリン大聖堂、旧博物館をみて、
最後にソニーセンターと呼ばれる有名なエンターテイメント施設が沢山入っていた。
屋根が個性的でガラス&ファイバー製の天井屋根は『フジヤマ』と呼ばれている。
夜はチャイニーズレストランが町中にあるので、この日はここで夕飯を食べた。
博物館島を挟んでいる、シュプレー川はベルリン市内を中心に位置しており、市内の景観において重要なアクセントとなっていてヨーロッパ髄一の緑にあふれた市街の風景を作り出していた。
ベルリン市街には数多くの公園、湖があり、夏には遊泳、冬にはスケートをしたりと 季節を問わず街の人々の憩いの場となっていると聞きました。
シェアしているオーナーに誘われ、実際に湖に行ってみたのだが水面は透き通るような透明度があり、鳥のせせらぎが聞こえ、まるで大都市とは思えない心地よさを感じることができました。
朝食はスーパーで買った、パンをスライス3枚+ヨーグルト+牛乳 が最近の日課。
昼はジャーマンソーセージ、ハンバーガー等。たまにこういった果物が安いので合わせて食べてます。
今回はベルリン市内にある、ユダヤについての資料館に二つ行ってきた。
まず、ユダヤ人犠牲記念館。
ブランデンブルク門のすぐ近くに2万平方メートル近い広大な土地にこの記念碑はある。
こんなベルリンのど真ん中である一等地に造ることがどのくらいの莫大な費用がかかるのか。
そういったことだけでも 過去の歴史的責任を認めているよう伝わってくる。
2711個もの石碑は高さが異なるだけで縦横の大きさは同じ。
この変に規則正しく並べてある石碑に何か異様なものを感じた。
この石碑の下には地下の展示室があり、そこには石碑と同じような独自の表現方法で、犠牲者の虐殺の現場や現在ある各記念施設に関する情報等が載っていた。
そして次に向かったのが、ユダヤ博物館。
ここの展示方法も異様かつ、目で見ることを超越して、五感全体で体験できる斬新的な展示が多かった。
『哲学的な建築物』とでもいえばいいいのか。
世界の建築やデザインの分野では話題の建築物でもあるらしい。
戦争も虐殺も、もう終わりにしよう
ベルリンから送る平和へのメッセージがここにはあった。
ここザクセンハウゼン強制収容所は1936年に設立された現在のドイツ国内では最大の強制収容所跡。過酷な重労働・ガス室・生体解剖実験等で約10万人もの尊い命が亡くなりました。
まず入り口に『ARBEIT MACHT FREI』と書かれた門をくぐります。
このARBEIT MACHT FREIとは
『労働の果てに自由がある』という意味です。
この言葉で人々を駆り立て、この門をくぐった10万人以上の人が、重労働の果てに死が待っていました。
強制収容所から連想することはユダヤ人、ガス室、アウシュビッツというようなものですが、実はザクセンハウゼンやアウシュビッツ等でガス室が使われたのは後半の断片的な部分になります。
ユダヤ人がユダヤ人という理由だけで収容所送りになり、ホロコースト(いわゆる皆殺し)
の方針が決まったのは1941年、正式にそれが発令されたのは1942年だそうです。
※ここでホロコーストを説明すると・・・
ヒトラー政権下のドイツおよび、その占領地域においてユダヤ人などに対して
組織的かつ意図的に行われたとされる大量殺戮を指す。
ホロコースト中にナチス政権によって殺害されたユダヤ人の数は、
一般的に600万人とされるが、それ以外にも反ナチの政治家、ロマ人、スラブ民族、
共産主義者、ポーランド人、ドイツ人の身体障害者・同性愛者なども迫害され大量に殺害された。
犠牲者の数は900万人から1100万人にのぼると考えられている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照
ドイツに訪れてからというもの、街の建造物やインターネットでこの時代のことに沢山触れる機会があり、毎晩深夜まで色々と考えさせられます。
そこで、ザクセンハウゼン強制収容所を中心に、参考までにナチス時代の自分が知り得た事と、自分なりの解釈を付けてこれから以下に説明したいと思います。
第一になぜ犠牲者をこんなにも出し、取り返しもつかない大惨事になってしまったのかというと、
やはりヒトラーはこの時代の重要な人物であり、彼の思想にその背景が見えます。
「人間の生存の最高の目的は、国家の維持やあまつさえ政府の維持ではなく、その種の保存である」
とヒトラーは述べています。
ここでいう「種」とは、生物種という人類全体のことではなく、『人種』を示唆します。
このナチスの人種主義は、優秀な人種としてのドイツ人「アーリア人」と劣等な人種として、ユダヤ人・スラブ人・ロマの人々・黒人・アジア人(日本も含まれています。)という人種間の格付けをし、この思想が、大量殺害へと変貌を遂げていったのだと思います。
しかし、第二次世界大戦では 日本・ドイツ・イタリア 三国同盟で第二次世界対戦にてタッグを組みました。
ヒトラーを含むドイツ人の将校たちはアジア人の中でも日本は少し特別な存在として見ていました。
その時代の舞台であったザクセンハウゼン強制収容所に収容されていた洗面所・トイレ・収容棟です。
続いて生体実験室・ガス室の当時の様子・死体焼却炉などを見学しました。
強制収容所は三角の形状をした広大な土地にあり、時々さわやかな風が吹きぬけ、鳥や草木が溢れていました。
それに映えるように空が大きかった。
まさかこの地でわずか半世紀前に大量虐殺が行われていたとはとても思えなかった。
全てを見終え、駅から含め4時間は歩いたであろう、足はクタクタで体全体が重く、そして心もまた重かった。
火葬場の画像に少し写っているが、どこかの日本の学校がおさめた千羽鶴が架かっていた。
第二次世界大戦の同じ敗戦国であるドイツは、負の遺産を後生に伝えるためにこの強制収容所をはじめ、色々な施設を維持・運営している。
この千羽鶴は同盟国としての立場もあるのであろうか
今の日本の若い世代はこういった同盟国がしてきたことや、日本がしてきた南京大虐殺のような事を学ぶ機会がなく、広島・長崎の原爆などの被害についてだけを教わる。
日本は『被害者』であると同時に『加害者』でもあった事実がある。
ドイツを見習い、日本にも加害者としての日本があったことを決して忘れてはならない。
そして過去から学び、現在に生かして新たな気持ちで生きることが一番大切だ。
Today is the first day of the rest of my life!!!
海外に自ら行って、生活や旅をしている人というには変わっている。
ものすごい抽象的にしか言えないが、何かが変わってる。
その波長が自分の波長に合い、凄く親近感を沸くと思うと、気づくと意気投合している。
そんな波長の合う人たちと別れ、今は宿が居心地がいい事もあり、一人で宿にいることがしばしば。
ゆっくりしていて気づいたことがあった。
ヨーロッパで 今日は一日ゆっくりしたなぁ と思ったのは初めてであった。
ヨーロッパでは一日一日の生活費が高く、常に次の国を調べ、ずっと同じ宿(国)に居とどまることはあまりありません。
しかし、アジアなど 物価の安い宿では一泊500円だからいいやぁ的な考えの人が多く、その宿に数ヶ月、数年と入り浸る人が後をたちません。
結局ドミトリーの傾向として、ヨーロッパは物価が高いので、みんな朝早くおきて夜遅くまで観光にでかけているのに対し、アジアは夕方まで寝ていたりとか不規則な生活になり、お金よりも大事な時間を無駄にしている様な気がします。
なのでヨーロッパでは日本人はならず者にはなれないという法則を発見しました。
イギリス、フランスとドミトリーの宿では日本人に出会い、共に行動をしていたことが良くあったし、それが楽しかった。
ベルギー、ドイツではまた一人の生活に戻り、一人で普通に観光している。
大きく見てもそうだ、日本ではいい仲間達がいて、いつも大勢でわいわいやっているのが好きだが、今回は一人旅を選んだ形になった。
結局自分は 寂しがり屋の一人好き という言葉が凄く当てはまることに気づいた。
けど、最近思うことは 自分が家族を持ったら、放浪まではいかないにしろ、家族と一緒に世界を転々と周っていたいと思っている。
武勇伝的にタイで一日100円で生活していたという人とたまに出会う。
自分は放浪のような貧乏旅行は本当はあまり好きではない。
せっかく究極の建築や絵画、景色を見ているのに、今日は何ユーロ使っただのと考えたく無いのが正直な気持ち。
今はお金が無く、ユースホステルに泊まっているが、旅行に貧乏は付けたくはないし、普段行けないような所ならなおさら、いいホテルに泊まり、沢山買い物もしたい。もちろんユースホステルが好きな人だっている。
そのためにも、日本に帰ったら仕事を見つけ、投資を磨いて、旅をするのに困らないくらいの財産を蓄えることが自分の大きな目標になっていくかと思う。
人生は思ったより短い気がする。
そのためにも、自分が好きな仕事を見つけ、好きな人生にしていきたい。
宿のオーナーってのも副収入になるし、老後にはぴったりな気がしてきた。
10時間という乗車時間だったが、ブログの更新をしたり、オランダ→ドイツらしい景色を堪能しながらの旅路だったのであまり退屈することは無かった。
ドイツ・ベルリンの宿は想像していた以上のいいホテル(シュアルーム)であった。
一泊シングルで15ユーロと値段も良心的だし、内装もいい。
そして何よりも立地が良く、ベルリン中央駅から2駅と観光には最高の場所だ。
最寄り駅はUバーンでhackescher marktという、オシャレな地区。
(おそらく東京で言う、恵比寿に近い)
オーナーは日本人の女性とドイツ人の男性のカップルで、
夏季限定で空いている一部屋を短期滞在者にシェアしているらしい。
やはり現地の人なので、初日から色々な情報が聞け良かったし、初日の晩御飯は近くのピザ屋に一緒に行ったが、本格的なピザ屋でおいしかった。
物価もイギリス、フランスに比べてだがそれほど高くなく、夜の治安も良く、街がきれいなので、まるで日本にいるような錯覚をも感じてくる。
ここベルリンの宿は10日(8月12日まで)予約したので、これから市内を散策し、時間があれば田舎も良いと聞いているので地方にも足を伸ばしたいと思っている。
地方ではここには是非行ってみたい。ロマンチック街道の終点にある、ノイシュヴァンシュタイン城。
アントワープの宿です。
今回はユースホステル。これで一泊約15ユーロ(2550円)。
青木ちゃんありがとう、無事ホステル見つかりました。
アントワープらしくオシャレな概観であったが、中は普通のドミトリーであった。
6人部屋で男性、女性別のドミトリー。自分の部屋はオランダ人が2人、アメリカ人が2人、良く分からないおっさんが一人、おれという結構インターナショナルな部屋でした。
ベルギーの夜は蒸し暑く、蚊が大量発生していて10箇所蚊に食われ、夜はあまり眠れなかった。
しかし、2日目以降は蚊対策 万全で寝たため、何とか防衛できた。
やっぱり蚊は好きにはなれないなぁ。
明日にアントワープ(ベルギー)からベルリン(ドイツ)に移動します。
夜行で行こうと考えていましたが、予約が間に合わず・・
よって明日アントワープ→アムステルダム→ハンノーバー→ベルリンという、
沢山の経由をして、約10時間 車窓を眺めての観光になりそうです・
ベルリンでは運よく、いい宿が取れたので楽しみです
アントワープはベルギーの小さな町という印象があり、パリ・サンマロ・モンサンミッシェルと見ていた名所があまりにも大きかったため、ここは2日間で十分見物することができた。
街が小さく、都内から離れているせいか、食べ物の物価が比較的安かった。
ビールにおいては、日本よりも安く、かなりおいしいと他の日本人観光客が言っていたのを耳にした事があった。
街の所々に小さな教会があり、市庁舎は色んな旗がカラフルに飾られていて綺麗であった。
また、川沿いにはここを守っていた城があった。
ここアントワープもやはり公園が多く点在し、なかでも興味深かったのは500種類以上の薬草・ハーブ園とサボテン園が一つになっている公園は、見たことも無い異形なサボテン等があり、見ていて飽きなかった。
まずはアントワープで一番有名な画家、ルーベンスとその後ろにノートルダム大聖堂。
ルーベンスは『フランダースの犬』において主人公のネロが見たがっていた絵画でもあり、ネロ自身目指していた画家らしいです。
正午になると、アントワープの中で一際目立つこの大聖堂から大きな鐘が鳴り響きます。
大聖堂の中に入ると、これまた大きい十字架がかけられており、みんな椅子に座ってお祈りしてました。
下の画像に写っている一枚の絵は、ネロがいつもお祈りをしていた絵で、ルーベンスの「聖母被昇天」といい、
ネロはパトラッシュとともにこの絵の前で天国に召されて行きました。
その天井には天へと続きそうなだまし絵が描いてあり、ずっと見ていると天へと吸い込まれそうでした。
この教会の維持費はかなりの金額の費用がかかるため、入場料が5ユーロと若干高めに設定されていましが、写真以上に色々と見所があり、払って見るだけの魅力がここの教会にはありました。